癒しの音楽編(What kind of fool am I=サミー・デイビス・ジュニア)

 イギリスの才人アンソニー・ニューリーが友人のレスリー・ブリッカスと共作したナンバーです。1961にロンドンで初演されたミュージカル『地球を止めろ、私は降りたい。』で、主演のニューリー自身が歌いました。その後、レコードに吹き込みヒットさせたのが、このサミー・デイビス・ジュニアです。ミリオンセラーになったそうです。しかも、このレコードは、同年のグラミー賞のベスト歌曲賞を受賞しているそうです。ちなみに、サミーは、ニューリー本人とTVで共演をしています。この二人の圧巻のデュエットは、これが本物のプロ歌手である事と類まれなエンターテイナーである事を証明しています。イギリスとアメリカが産んだ二人の才能にびっくりです。日本は、いつこのレベルに到達できるのか?まだ、ずっと後の様な気がしています。

目次
Ⅰ サミー・デイビス・ジュニアについて
Ⅱ 癒しの音楽編(What kind of fool am i=サミー・デイビス・ジュニア)
Ⅲ 歌詞について
Ⅳ 黒人の歌について

Ⅰ サミー・デイビス・ジュニアについて


 サミー・デイビス・ジュニア(1925年12月8日~1990年5月16日)は、アメリカの歌手、俳優、エンターテイナー。ニューヨークのハーレム地区で、ボードビルショウを生業とする黒人一家に生まれます。サミーもかつて紹介したルイ・アームストロングと同様、黒人であるため厳しい人種差別を受けたようです。ただ、サミーの場合、母親がプエルトリコ系のユダヤ人であったため、差別を受ける状況は、もっと酷かったのではと考えられます。彼の歌や、タップダンス、物まね等の群を抜いた才能は、エンターティンメントの世界で黒人でありながら、フランク・シナトラ一家の一員として皆を認めさせる事になります。私が、特に魅力を感じるのは、天性とも言えるリズム感と温かいソフトな美声とユーモア溢れる語り口です。と言っても、私は英語は全くわかりませんが。残念ながらサミーは、64歳という若さで喉頭がんで亡くなります。サミーは、癌を宣告された時、喉の一部を摘出するより、化学療法と放射線療法で声を維持する事を選びました。サミーが、どれだけ自分の声に対して愛着を抱いていたか、わかります。しかし、死の数週間前には、喉頭は全摘出されました。サミーの生前の素晴らしい歌声を聴くとサミーの苦しさや辛さが、思い出され涙が出てしまいます。私は、66歳です。若い時のままの声ではありませんが、未だに歌える声が出る事に感謝しないといけないなとも思います。
 

Ⅱ 癒しの音楽編(What kind of fool am I=サミー・デイビス・ジュニア)


 さて、今日の本題と思いうべき、この歌は、サミーの代名詞とも言うべき歌です。(私は、勝手にそう思っています。)YouTube等で検索すると、たくさんの動画や記事が出てきます。日本では、『何て愚かな私』とでも言うのかな?自分の事を自虐的に歌う歌は、この歌をはじめ、たくさんあるようです。もちろん、日本にもあります。例えば、細川たかしの『心のこり』藤圭子の『新宿の女』敏いとうとハッピー&ブルーの『よせばいいのに』渥美二郎の『夢追い酒』等です。日本の方がはるかに多いようです。これは、自虐史観の影響があるのかもしれません。自分を卑下する事は、あまり、いい事ではないように、西洋では捉えられています。一方、日本では、美徳的な感覚もあります。私も、どちらかというと自虐的な感覚が強かったようです。が、どちらにしても、偏る事が一番よくない様に今では感じています。ところが、音楽に関しては、この曲のようにどんなに自虐的であっても、聴いた後、やる気が出てくるのは不思議です。多分、ダメだダメだという事で逆にそういう気持ちが消されていったのだろうと思います。不思議です。
 サミーの歌は何故か、人の心に染みます。特にこの歌は圧巻です。
 皆さんも、聴かれて自虐的な心を取り去ってみてください。


Ⅲ 歌詞について


 ※歌詞が長いのでさわりだけ載せます

What kind of fool am I
 Who never fell in love
 It seems that I’m the only one
That I have been thinking of

何て愚かな私

恋をしたこともない

考えたみたけどそんな人間は、

私だけのようだ

What kind of fool am I
 Who never fell in love
 It seems that I’m the only one
That I have been thinking of

何ていう人生だろうか

空っぽの貝殻

空虚なハートが住む

寂しい小部屋

What kind of fool am I
 Who never fell in love
 It seems that I’m the only one
That I have been thinking of

何て唇だ

偽りの口づけをし

空々しい愛の言葉をささやく

そんなのは 自分を孤独にするだけだ

 What kind of fool am I
 Who never fell in love
 It seems that I’m the only one
That I have been thinking of

何故 ほかの人のように恋が出来ないのだろう

恋をすれば どんなに私が愚かか

わかるかもしれない

Ⅳ 黒人の歌について


 22回目のブログまで、白人関係の歌を多く取り上げました。23、24回目は、黒人が歌う曲を取り上げる事になりました。書いていくうちに、「何か違う」という思いが湧き上がってきました。白人、黒人、日本人等、名をあげた歌手達は、皆、魂を込めて歌っていました。だからこそ、どの歌も感動するし、たくさんの人びとを引きつけます。その事に優劣をつける事は出来ません。しかし、先ほど書いたように両者には、「何か違う」ものを歌に感じるのです。 それって何だろう。
 これから書くのは、私の勝手な思いだけです。結論から言います。それは、歌に対する重みの違いです。歌は、個人で歌うものですので、個人の歌を歌う背景や歌の持つ背景などのエネルギーがその曲に込められています。その重みの違いを感じたのです。皆さんがご存じの通り、アメリカの黒人は、アフリカから奴隷として強制的に移住させられ過酷な労働環境に置かれました。差別と言うより、人間扱いされてこなかったのです。その中でルイ・アームストロングやサミー・デイビス・ジュニアのように、差別政策の中で人間として生きていくためには、自分の芸に魂を込めてアピールしていくしか生きる術がなかったのだろうと思います。差別という現実があったからこそ、それを乗り越えるすさまじいエネルギーが、曲に込められ、今でも私達の心にいつまでも、残り続けているような気がするのです。
 今、私は、彼らに比べたら、あまりにも平凡な人生しかおくっていません。しかし、彼らの歌に耳を傾け想像する事で、いつの間にか、自分のエネルギーが充満してきます。
 これは、レイキをする人される人の関係とあまりにも似ています。ただ、レイキの場合、施術者は、施術される人に、何とかしてこの人を治そうとか、いい気持になってもらおうとかいう強い意識は、必要ありません。もちろん、健康になってほしいという祈りや願いを持つことは当然なことですが、念ずる必要はないのです。ただただ、優しく手を12ポイントにあてるだけでいいのです。ルイ・アームストロングもサミー・デイビス・ジュニアもきっと、何とか分かってもらうために力んで念じて歌を歌っているのではなく、きっと、歌っているうちに自然と内からエネルギーが沸き、それを聴いた人々もそのエネルギーを受け、お互いのエネルギーが共鳴しあって感動という癒しのエネルギーが充満していくのだろうと考えます。レイキも同じように、決して強く念じ力む必要はないのです。

Neospace fuu

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次