頑張ってるあなたに花束を

今回で6回目のブログになりました。ストレスの話は、まだまだ続きます。
 今回の話は、少し、長くなりますので、ご容赦のほどお願いいたします。(今、朝ドラで、松重豊が切られ役の大部屋男優として出演しています。私に、松重さんのような重厚さや渋さはありませんが、彼の言葉使いが何ともカッコよかったので、こんな言葉が出ました。)
 私は、前のブログで書きましたが、幼少の頃、心臓を悪くしていました。母親の話を聞くと、心臓が斜めに傾いていたそうです。その為か、高熱を出すことが多く、高い時は、42℃にもなっていたそうです。3~4歳くらいだと思いますが、六十年以上も経つというのに、私は、未だにその病気の苦しさ辛さを覚えています。熱が上がると、私は、急に動けなくなり、仰向けになります。仰向けになったかと思うと、天井板の節々が、狂ったかのようにまわりながら私を襲うのです。恐怖のあまり、隣にいる母に助けを呼ぼうとするのですが、その声さえ出せないのです。この異常に気付いた母は、日夜関係なく、私をおんぶして、病院にかけていきます。タクシーや救急車があまりなかった時代です。病気になれば、兎に角病院に駆けつけるにはこの方法しかなかったのでしょう。高熱になったのが、真夜中であれば、なおさらです。私は、意識のない中でも、母親が、私を必死に助けようとするエネルギーに何とか答えようとしたような気がします。眠ってはいけないと。覚えているのは、母が、病院の玄関のガラス戸を必死にたたく音です。この世に存在しているのは、私と母とガラス戸を必死に叩く音と真っ暗な静かな夜だけでした。
 ある日医者は、言ったそうです。『こんな事を話していいのかわからないが、この子を助けられるのは、神様だけです。』と。母は、直ぐに近くの評判のいい霊力のある老婆にすがりました。『この子には、7人の守護霊がついている。すぐにこの病気は治る。』と、ある仏様に手を合わせてから、もう二度と私は、この辛い謎の高熱にうなされる事はなくなりました。もちろん、心臓も正常に戻りました。
最近になってわかったのですが、私の心臓は、肥大化しているそうです。これは、長く強度の強いスポーツを続けた人にしか見られない心臓だと医者が話してくれました。私は、小さいころから母親に運動を停められていたので、どうして心臓が肥大化しているのか、未だにその理由が分らないままです。ただ、思い当たることと言えば、小さい時の病気の事と高校になってから、腕立て伏せや腹筋を毎日している事しか考えられません。
 私の病気は、その後扁桃腺炎、蓄膿症、風疹、ぎっくり腰、右手中指の腱断裂等ありましたが、大きな病気にはかかりませ
椎ヘルニア、左膝半月板損傷(2回手術)、バセドウ病、鬱病、右手首の腱断裂、尿路結石等病気ばかりをしていました。思うと救急車に何回乗ったか忘れてしまうほどです。病気のオンパレードというしかありません。主な病気の間には、インフルエンザや原因不明の頭痛にもかかっていますので、心身共に好調な時は、殆どないような感じです。しかも、退職してから、高血圧にも悩まされ続けていました。高血圧といっても、私は、その自覚が全くなく、年一回の臨時教員のための健康診断でいつも、血圧が150以上あったため、その事が引っかかって再検査をするのですが、何度やっても150以下にならず(150以上では、採用が困難)、診断書に治療を続けている限りは、通常の勤務が可能ということを書いてもらうことで、採用される状況でした。それに、かつて痛めた膝や両肩腱断裂も痛みが消えず、寝返りを打つ度に目が覚めていました。
 何とかこの痛みから脱したい。この苦しみから抜け出したい。考えれば考えるほど、私は、泥沼に入っていくような感さえありました。その当時、妻と幾度となく喧嘩を繰り返しました。その中にお金のこともあります。収入がないのに、家のローンを払わなくてはいけません。見る見るうちに貯金が減っていきます。何とかしなければ、私は、非常勤講師の時数を増やしました。今までの倍勤務します。その分、やる事が増え、ストレスも増加します。家に帰ったら、もうへとへとです。かつて、私は、教員の激務に耐えられず、56歳で早期退職しました。鬱病は、その時に患いました。学校での対応に苦慮した私は、かつて経験したあの袋小路の中にいる自分を思い出していました。これではいけない。逃げる。私は、この年度で最後の教員生活にしよう。逃げる。いや、逃げるのではなく、避難する。新しい生活を作るために一時的に避難をする事にしよう。もう十分やったのだから。
 
 私の現在までの人生の中で、衝撃的な事が何度かありましたが、これから書くことは、その中で最初の出来事です。30代だと思っています。その頃は、出張がある時は、ほとんど、公共交通機関を使わず、自家用車を使っていました。高速ももちろん平気で乗っていました。熊本の出張から高速で帰っている時です。私は、わりと安全運転でしたので、制限速度ギリギリで走っていたと思います。左カーブに差し掛かりました。そこへ、白の乗用車が後ろから急に猛スピードで私の車を追い越そうとしたのです。思わず、私は、びっくりしてハンドルを少し左寄りに切りました。すると、白の車は、追い越したかと思うと100m位先の所で、左カーブを曲がり切れないまま右のガードレールに衝突したのです。
 私は、訳が分からないまま、兎に角止まらないといけないと思い、車を左に寄せて停車しました。ぶつかった車を見ると、ガラスが割れ、中にある無数の書類が風に煽られ、ひらひら舞っています。どうしていいかわからない私は、しばらく、車を見ていると、少し、人影が動いています。その動きに我に返った私は、あそこに行こうと決めたのです。でもここは、高速道路です。何台もの車が私の車をビュンビュン追い越していきます。あそこに行こうにも、車が高速で走っている間を見計らって行かなくてはなりません。こんな事は初めてです。しかし、『あの中にいる人を早く助けないと』この心の声に押され、何とか白の乗用車にたどり着きました。「大丈夫ですか。」男性の運転手と女性が助手席にいます。すぐに、声が返ってきません。もう一度言いました。それでも声が返ってきません。しかし、男性は、少し、俯いた様子を見せ、女性は、外に出ようとしましたが、止めました。二人に、今から救急車を呼ぶことを話そこで待つように言ったのです。何とかっこいい事を言ったのか。私は、少し後悔しました。電話なんてどこにあるの。三十数年前の話です。携帯なんてありません。どうしよう。切羽詰まった私は、高速を走ると必ずと言っていいほど、電話のデザインの描いた箱が道路脇に設置してある事を思い出したのです。あれだ。私は、全力で走りました。見境もなくどこかに電話があるという事を信じて走り続けました。汗をびっしょりかいていることも忘れていました。覚えていることはここまでです。後どうやって、救急車を呼んで、救急車を待ったのか。隊員の方とどんな話をしたのか全く覚えがありません。ただ、覚えているのは、その後の事です。高速を車に乗っている自分が急に恐ろしくなったのです。走りながら、ぶつかった乗用車の様子が鮮明に思い浮かびます。ハンドルを握る手が硬くなり汗びっしょりになっています。その後、私は、車の運転が怖くなり、特に高速には一切乗れなくなったのです。(私は、この後数十年にわたって、乗り物酔いのストレスに悩むようになりました。)
 今から、書くことは、少し横道にそれているかもしれませんが、これと似たような体験がいくつかあるので思いついたままそれを書きます。
 これは、私が小学生高学年の頃だと思います。家族で旅行に行った先の売店で起きた事です。私達は、売店で何か買おうと話していたと思うのですが、その売店についた時は、もう自動シャッターが、床の近くまで下がろうとしていました。その時、低学年位の男の子がシャッターの前に滑り込んだのです。すると、男の子の両足が、シャッターの下敷きになったのです。その時、父が私に「棒を持って来いと」と大声で叫んだのです。父はシャッターがこれ以上下がらない様に必死に両手で持ち上げようとしています。が、持ち上がりません。私は、その棒を見つけられず、近くにいた誰かが持ってきてくれた棒(たぶん箒)を父が素早く受け取り、シャッターの下に突っ込み、てこの原理でシャッターを上げたところで、子供を引っ張り出したのです。私は、シャッターを持ち上げようとする事しかできず、ただ、父の手際よい反応にただ、見とれていただけでした。
 今から考えると、この父のとったこの行動が今の私の行動の指針になっているように思います。高速道でとった私の行動は、もたもたした行動でしたが、やれるだけの事はやったという満足めいたものがあるのです。しかし、その代償として私は、車の運転をする事が、極端に苦手になり、特に高速での運転が出来なくなりました。それどころか、自分が運転する車以外の乗り物に乗れなくなってしまったのです。
 学校での職員旅行があった時です。バス旅行です。私は、いざ、そのバスに乗ろうとした時、あの恐怖の瞬間を思い出したのです。私は、私の異常に気付いた同僚に車酔いが激しいので、バスに乗れないことを訴えました。その時の事は、余程パニックになっていたためか、それ以降の記憶が全くありません。たぶん、バスに乗れないまま、私は、自宅に帰ったのではと思います。
 また、こういう事もありました。私の一番恥ずかしいやってはいけない無責任な行動をお話します。
当時、私は、ミニバスケットクラブの監督をしていました。子供達の一年間の頑張りを労うため、電車に乗ってスペースワールドに引率をしている時です。電車に乗って10分も経たないうち、冷汗が出てきます。血の気も失せています。何とか子供達を最後まで引率しなくては、と思えば思うほど、電車の走行音や電車の揺れが私を襲ってくるような気がします。母に背負われて病院を探し回っている時のあの絶望的な感覚です。私は、溜まらず同僚の先生に後の引率を頼み、電車を降りたのです。人間として最低の行動です。電車を降りた時の私の敗北感というか、挫折感。もう教員に戻れない。もう教壇に立つ資格がない。乗り物に乗る事も出来ない私が、どうして人を教える事ができるのか。この自問自答の二十数年だったような気がします。
 こんな事もありました。夜道を自宅の方に歩いて帰っていると、突然、爆発音がしたのです。何の音かと思ってその音のする方角を見ていると10m位の炎の帆柱があがっていました。自宅まで、後30m位だったので、あわてて自宅に走って帰り、消防車を呼んだことがあります。すぐに、消防車が来て事なきをえました。爆発は、自動二輪だったようです。
 また、こんな事も。自宅から買い物に車で出かけている時、この日は、熱い真夏の日差しがきつい時でした。坂に差し掛かった時、ご高齢の女性が道端で倒れているのです。私は、車を降り、その方に声をかけると何を言っているのか分らない状態でした。私は、すぐに携帯で救急車を呼んで対応しました。
 
 最後に、もう一つ。ある夏の日。娘と直方の市民プールで遊んで、帰ろうとした時の事です。空は、急に暗くなり曇って雨が強く降ってきました。プールの改札口を出ようとした時、小学校中学年の女の子が、その出口で寒さに震え一人でいるのです。私は、「どうしたの」と聞くと、自転車で帰ろうにも雨で帰れないというのです。住所を聞くと、自宅の途中です。電話できないのと聞くと、今家には誰もいないとの事でした。私は、ミニバンに乗っている事と、娘もいる事、自分が、教師である事等を話すと、安心したようです。車に乗って帰る事を提案するとすぐに車に乗り、送り届けることが出来ました。
もちろん、自転車も一緒に。今こんな事をすると、誘拐犯にされそうですが、何と大胆なことをしたもんだなあと思い出す度、ドキドキしてしまいます。
 私の今までの人生には、こういった出来事がたくさんありました。プールの女の子やシャッターに挟まれた子のように助けを求めようにもただ、ひたすらその助けを待ち続けるしかない子。登校拒否を続ける子。行きたくても家にいる下の子の面倒を見るために学校にいけない子。兄弟の中で、自分だけが、不当に扱われ、万引きに走ってしまった子。学校の決まりについていけず、登校拒否する子。勉強についていけず、登校拒否をする子。私の周りには、無数と言ってもいいくらいに、こういう子たちがひしめき合っていました。誰でもいつどんな時にどんな災難がやってくるのかわかりません。そういった人々を見てしまうと、かつて、父がとったあの行動を思い出すのです。今、できる事をやる。しかも全力で。この父のエネルギーは、今の私の人生にもこれからの人生にも大きく影響しているのではと思っています。
 私は、いつしかコンビニや至る所に置いてある募金箱には、必ずといって良いほど募金をするようになりました。募金の金額は、少ないですがこのお金で誰かが助かっているという事を考えるだけでも、少し、心が落ち着きます。お金は、天下のまわりものと良く言いますが、まわらなかったらただの紙切れになってしまいます。お金は、使ってこそはじめて、価値が生まれます。価値が生まれれば、そこから、新しいエネルギーも循環します。お金をまわす事で、人々の生活は、豊かになります。豊かになれば、時間に余裕が生まれます。その余った時間を人助けに使う。助けられた人は、自尊感情が生まれま
す。自尊感情ができれば、自分が助けられた時と同じように人々を助けようとします。Neospace fuuでは、まだまだですが、そんな場所に近づけられたらと思っています。人が健康的に生きるには、最低限のお金が必要です。ところが、先進国であるこの日本でさえも、そのお金が隅々十分にまわっているとは言い難い気がします。 

さて、どうして私が長い病歴や様々な出来事を書いて来たのか、その理由が、分りましたでしょうか。今の私があるのは、父や母が、生へのエネルギーを私に注入したからこそです。このエネルギーの源泉は、子孫を慈しみ健康に末永く生命を全うして欲しいという本能的なものだと思っています。皆様には、その事を感じていただきたかったからこそ、私の長い歴史をかいつまんで書いてきました。人は、どんな人にも健康的な人生を営む権利があるし義務もあります。これでもかというたくさんの病気に見舞われた私ですが、やはり生きていてよかった。これからも父があの男の子を助けたように私も誰かの役に立ちたい。父は、もう亡くなりましたが、仏壇で手を合わせる度に、そう思うのです。
 
 今回のブログは、病気のストレスを中心に書いてきました。病気は、時に、人を無気力という虚脱感や悲しみを招きます。私は、病気に見舞われるたび、どうして自分ばかりこうなのかという気持ちになりました。しかし、一つ一つの病気を克服するために、様々な事を試してきました。気功・運動・指圧のツボ・言霊・水・芸術・レイキは、どれも、甲乙つけがたいものです。これらは、ただで、いつでもどこでもできます。Neospace fuuでは、レイキを中心にしていますが、ここにあるものは全て、エネルギーを込めて作成しています。絵画・図形・言霊・光・コースター・折り紙・マントラ・音楽・水等で、あなたをお迎えします。まだ、発展途上の私達ですが、Neospace fuuでは、来られた人に合わせて、必要なものを提供していきます。どうぞ、異空間を味わい下さい。

玄関に咲いているビオラとパンジーです。

 植物に心地よいプラスの言葉かけをすると、良く育ちます。人間も同じです。
 今、世界情勢は大変ですが、そのストレスが植物にも影響しないか心配しています。花や自分にも言葉かけをして、更に力強く美しく咲き誇りたいものです。

 愛しています。
ありがとうございます。
感謝します。
ツイテルツイテル。
嬉しい。楽しい。幸せ。許します。


 
 長い文章を最後まで読んで頂き、有難うございました。
皆様の人生、全ての良きことが雪崩のごとく訪れる事をお祈り致します。

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